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ご挨拶

僕が政治を志したのは14歳の時でした。3歳年下の弟が先天性の心身障害者であった事もあり、弱い者を思い強い者に戦いを挑む自己犠牲の精神が育まれました。

両親共働きの家庭で、3歳の時に生まれた弟の面倒は4人兄弟の中で年齢が近い僕の仕事になりました。なんで人は生まれてくるのか、なんで人には違いがあるのか。皆が幸せになる世の中であって欲しい。そういう強い思いが自然と生まれてきました。

両親は弟の将来を案じ、子供には医者になって欲しいという希望を持ちました。その希望を叶える事、弟の将来を案じる事が僕が生まれてきた使命ではないかと考え、医師を志し、再生医学の研究に生涯を捧げようと考えていたのが12歳の時です。

「政治のあり方」、「行政運営の不備」は幼少期から国の課題として感じるところでした。1985年のプラザ合意を契機にバブル経済へと向かい、亡国の予兆を感じました。

東京大学文科一類出身者が幅をきかせ、科学技術立国の担い手たる研究者が軽視される。誰もが拝金主義へと走り、生涯年俸の高い職種に人気が集中する有様でした。

皆が幸せになる世の中を創る為に、誰もが神から「使命」を与えられて生まれて来るのだ。幼少期に学んだ聖書には、神からの「ミッション」が刻み込まれている。

どのように生きるべきかと悩んだ13歳の思春期、自殺すら考える中で選んだ道、それが弱い者の為に生きる事、弱い者の為に死ねる、そんな政治家になることだった。

足跡

誕生~保育園時代
大阪市大正区の大正病院に誕生する。
幼少期を大正区泉尾で過ごす。
地元で有名な「ピカドン」の孫として育つ。
『大江戸捜査網』や『Gメン75』を見て、正義の道に生きることを誓う。

少年時代(小学生)
本の虫のように読書に没頭する。
特に、歴史に興味を持ち、人生とは何かについて考える。
既に、成功する為の方法については悟り、正義の道を究める生き方について模索し始める。

政治家への道(吾十有五而志乎学)
小学生の頃には、医学を志していた。将来の夢として、東京大学医学部に進学して、ヒトゲノム研究と再生医学でのクローン作製・臓器培養や多能性幹細胞などの応用研究を志していた。また、今後の科学技術研究においてのコンピュータ活用の重要性を指摘し、人工知能を使った診療支援システムなどの研究を夢として語っていた。
幼少期から医学とは最も貧しい者の人権を守る為に存在し、医師を志す者は何より人命を尊崇する心を持つべきであるとの考えを示している。
1985年9月22日、ロナルド・レーガン政権下で、実質的に円高米ドル安に誘導する『プラザ合意』が成立した。その後、1986年(昭和61年)12月からのバブル景気が、日本社会に精神的構造的破壊をもたらすとの危機感を強く抱き、1987年(昭和62年)2月(当時中学2年生・14歳)に、ヒトゲノム・再生医学・人工知能を使った診療支援システムなどの研究の道を諦めて、政治家になることを志したのが現在に至る第一歩とされる。
当時はバブル経済に向かう機運があり、バブル経済が1989年に崩壊したのち、20年超の長期不況(「失われた20年」)となり、日本社会は先を見通すことができない精神構造的カオス化に陥ると想定していた。そのカオス化は、破壊的カルト宗教を生みだし、地下鉄サリン事件が発生すると予想していた。日本的経営が終焉を迎え、長期化する精神構造的不況から脱却するには、政治システムの根本的転換もさることながら、何より先ずは次代の教育改革を進め、世界のリーダーとなる人材育成を核にした社会へと転換することが必要であると考えていた。現在の公教育は硬直化しており、偏差値教育は歴史的転換点に至っているとの考えを示し、日本的精神美である「武士道精神」に基礎を置きつつ、欧米に見られる個々の人格を尊重し、成長スピードに合わせた教育(飛び級・留年制度)により学習効率を高めて、学力の底上げを徹底するしか日本再生の道はないと語っている。

1999年 大阪市長選挙
1999年に大阪市長選挙に出馬し、当時27歳で最年少での立候補だった。政策では、「(世界)首都大阪」を提唱し、現アップル インコーポレイテッド(当時のアップルコンピュータ:時価総額約1兆円)を買収して、市有の大阪ワールドトレードセンタービルディングに本社を置く情報技術で世界をリードする企業とすることで、世界中の情報が大阪市に集まる仕組みを創ろうと計画していた。米アップルの時価総額は、2015年2月10日時点で米国企業として終値ベースで初めて7000億ドル(約83兆6000億円)を突破した。終値は122.02ドルで、時価総額は7107億ドルに達した。その他にも、東経110度CSデジタル放送(旧スカパー!e2、2002年3月放送開始)を大阪発の全国放送として、大阪市に「キー局」を置く国際的メディア事業の展開を提案していた。
また、アメリカ同時多発テロ事件を未然に防ぐ為に、航空機などの完全自動操縦化を米国大統領に提案し世界的な自動操縦に関する規格化の枠組みを作ること等、多くの政策を企画し、政策は全世界で様々に議論されていたので、選挙公報には「政策は他をごらんください」と記述した。

2001年 長野市長選挙
2001年に長野市長選挙に出馬し、当時28歳で、最年少での立候補だった。政策では、長野市を政令指定都市とする市町村合併を進め、英語を公用語化する「英語圏構想」・シリコンアレー的な「長野バレー構想」を提唱し、世界最先端の医工連携研究機関を傘下に置く長野市立大学医学部を中心とする学術研究都市を目指していた。
地元ケーブルテレビ局(通称:INC長野ケーブルテレビ)を活用し、キャンパスを持たないで、リベラルアーツ(国際教養)に基礎を置いた、海外とのコミュニケーション能力を重視したカリキュラム編成を特徴とする国際教養大学の設立を目指し、医学部および大学病院を長野駅前に信州大学と共同設置し、医工連携研究で遠隔手術分野などで世界をリードする研究機関とする計画だった。「英語圏構想」実現の基盤として、全寮制での英語教育を義務教育で導入する長野市独自の教育を提唱している。
その他に、2002年ミレニアムオリンピック(「中東での開催を想定した千年の平和構想」)の開催を提唱して、中東で起きると想定されていた米国主導の対テロ戦争を未然に防ぐことで、日本を巻き込む泥沼の対テロ戦争を止める平和運動を計画していた。また、アメリカ同時多発テロ事件を環境戦争と位置づけ、石油価格高騰を画策する動きから公共事業の前倒し実施の必要性を公開討論会で訴えている。原油価格を始めとする資源価格高騰を宣言し、公共事業費の抑制の為に先物取引でリスク管理する手法でコスト削減を提案した。そのような金融取引を行う証券会社設立を八十二銀行と共同で行うことを同時に訴えている。

葛藤時代(正義とは何か)
2002年、政治活動の休止を宣言した。1999年大阪市長選挙の時に想定していた「2002年末の株価急落」と「米国主導の対テロ戦争」による株価高騰が予想される中での休止宣言だった。そののち十数年に及ぶ葛藤の日々の始まりだったと語っている。

2005年 大阪市長選挙
2005年、当時の關淳一大阪市長が突然の辞職・立候補したことを受け、義憤から大阪市長選挙に出馬した。
当時33歳での立候補だった。「投票は子供への愛のメッセージ。」であると訴え、投票の啓発運動を展開した。国での二大政党制が定着していた為、改革には地方でも政治的対立構造が必要であるとの考え方が生まれていた。しかし、地方政治には安定性が必要であり、首長のリーダーシップと議会制民主主義という二元代表制により、「市民の為の政策」を立案・執行することが必要であると訴え、経営委員会方式での市政運営を提唱している。

2013年 奈良市議会議員選挙
2013年に奈良市議会議員選挙に出馬し、「トップ当選(史上最高得票数 10,379.877票)」する。

現在
奈良未来の会(会派)に所属する保守系無所属議員として活動している。


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